自分のことは見えない

もう5,6年前になってしまうが、あるカウンセラーに自分のどういうところが、子どもの(問題、と思われる)行動に反映していると思うか指摘してくれ、と言ったことがあった。それなりに必死だった時期のことだ。でもその答えは「指摘したり解釈したりするのは簡単だが、自分でそれを見つけるほうが、気づきが深いと思う」というようなことだったと思う。子どもの力ってどこまで信じたらいいんですか、とも問うた。「どこまでも信じてやればいいんですよ」という言葉もまた覚えている。書いてみるとほんとにダメダメなのだが、こうした会話をできたのは自分にとって深い意味があったと思っている。

子どもの隣のクラスに相当乱暴な子がいて、園側の説明と、その子の親が懇談会等で言うことがかけはなれていた。どう見ても親の生活が忙しすぎて向き合う時間がなかなかとれないのだろう、とは傍からはよく見て取れるのだが、当人は見えないというか、見たくないのかもしれない。環境を変える決意にいたったのかと思いきや、そのまま進級するそうだ。今の園は、母のありようをできるだけ肯定して、子どもの前では絶対に責めない、という努力方針なので「居心地がいい」という。ああしろこうしろと干渉された前の保育園に比べると、ということだそうだ。(今日知ったのだが職種が同じだった!orz)


私は私のありようを選択して決めるしかない。
そして私のことが見えにくいのは私だ。
どうどう巡りになるのは、最強かつ根本的な選択肢を自ら捨ててしまっているからなのだろう。