20代のはじめに

祈るということはもっと日常だった。出された宿題をこなすみたいに。教会の集まりにもよく行っていた。某地方で崇拝されている「先生」がいて同世代の友人は夢中になっていた。大人たちにも受けは悪くなかった。ある時直接会う機会があったが、説明し難いひっかかるものがあった。何年か経って、その群れ全体をゆるがすような件が明るみにでて、友人はショックを受けていた。もっともそのお連れ合いは最初から違和を感じた、と云っていて、ひそかにやっぱりと思ったことがある。人の集まるところはどんなところであろうと、あくまで人の活動でしかない、ということを知った最初だった。もっと時間がすぎ、思考停止をしないでも、大いなる存在を感じながら生きる考え方に触れてから、あのころのことも無駄ではなかったと考えるようになったけれど。教会生活とは、信仰-faithそのものとは別なものだ。おそらくどんな宗教でも。宗教に限らずとも。


ある人の持つ、自然がもたらした力とか、その魅力にどうしようもなく惹きつけられることがしばしばある。インスパイアされ新しい局面が開けることも。
そのときに経験した感情は、あったことで、なくせない。後になって、感じたそのことすら忘れたくなることもあるけれど、そんな場合は、ちょっとしたひっかかりは同時に何かしらあって、無意識にか、意識的にか流してしまっているのだ…多分。

考えるのをやめることと、すべてを受け入れることは同じようで違う。受け入れる過程において、戦うようなこともあると最近思う。そうしてまたあらためて読んでみると聖書も捨てがたいものだと、マタイもまたよいなあと思う。


誰かの願いと祈りがかなうように、支えられるように、そのためにもしかしたら自分を用いられることがあるならば、十分にその力を出せるようにしてくださいとなら、今は祈れる。それしかできない…。